ときがわ町の山城をナビゲート!
「山城ガールむつみ」さんによる、ときがわ町「大築城跡」の解説ページです。
たっぷりとお楽しみください。
大築城跡の登り方です。参考にしてみてください。
大築城跡 案内マップ [PDF]
山城ガールむつみ
こんにちは!
歴史&山城ナビゲーターも「山城ガールむつみ」です。
今回は、ときがわ町の「小倉城」「大築城」という2つのお城をナビゲートします!
一緒に山城を攻めている気分になって楽しみましょう!
いざ!出陣!!!
※「小倉城跡」のレポートはコチラをご覧ください。
歴史講師、歴史&山城ナビゲーター。
山城、歴史イベントや講座を多数開催。
数多くの御城印デザインも手がけ、地域活性の起爆剤として「山城」めぐりの楽しさを伝えている。
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山城ガールむつみさんによる「大築城跡」の解説
ときがわ町の山城
荒川水系の都幾川とその支流の槻川が流れ、さらには鎌倉街道が近くを通り、古くから交通の要衝地でした。
町の名前にもなっている「都幾川(ときがわ)」は、都幾山の南麓を流れている川だったので「都幾川」と呼ばれるようになりました。
そもそもの語源は「斎(トキ)」とも言われ、潔斎などを意味し、「清める」という意味を持つのではないかと考えられています。
都幾山には関東の武士から篤い信仰を集めていた古刹都幾山慈光寺があり、関東において、この地がとても重要だったことがわかります。
それでは、ときがわ町の「大築城」に出陣してみましょう!!!
ハイキングにも最適
大築(おおづく)城がいつ築かれたかなどの詳細はわかっていませんが、戦国時代に慈光寺を攻めるための拠点として大築城が使われたと考えられています。
大築城が築かれている山は、慈光寺領域と越生(おごせ)郷の境にあたる重要な場所です。
天文年間(1532-1555)に小田原北条氏の家臣上田朝直が在地の対抗勢力だった慈光寺を攻略するための拠点として整備しました。
その後も北条氏の城として、拡張整備されていきました。
今でも山の中で、戦国時代の城の姿を楽しむことができます!
駐車場情報などはコチラ(準備中)
今回は椚平地区から登城します。
(このルートは現在は土砂災害の影響で車両通行止めになってますので、車でお越しの際にはお気をつけください)
椚平地区では、復元された「大木戸」が出迎えてくれます。
ここは大築城の下を通る街道にあたり、この街道の監視のために大木戸が置かれたと伝わっています。
今は川に向いて復元されていますが、街道を封鎖するように大木戸が設置されていたのでしょう。
大木戸の分岐を左手に進みます。
進むと、このような標識があります。
ここを左へ。
マイナスイオンをたっぷり浴びながら進みましょう。
整備されている山道をズンズン進みます。
矢印の箇所は、人工的に平らにしたような造作になってます。
見張りでもしてたのかな?そんな想像を膨らませながら歩きましょう!
休憩しつつ、展望を楽しみながら進みましょう!
山城めぐりは体も心も頭も全て喜ぶ、とても楽しい大人の趣味ではないでしょうか?
自然と笑顔になります。冒険心も刺激されてワクワクしますね♡
右に行くと「馬場」と呼ばれてるエリアへ続きます。
他にも「モロドノ(毛呂殿)曲輪」と呼ばれる曲輪があり、在地の勢力だった「毛呂氏」と大築城の関連が指摘されています。
戦国時代に小田原北条方の城として整備される以前から、毛呂氏に関係する城郭が築かれていたのかもしれませんね。
では、今回は左へ進みます。
敵を防ぐために、人工的に尾根を加工したのでは?と思ってしまうような美しい尾根道です。
細い尾根になっているので、一列縦隊でしか通れません。
自然地形に手を加えて、敵の侵入を防ぐために道を細くしたのかもしれませんね。
かわいい案内板にほっこりしますね。
ちなみに、中世のお城は本丸のことを「本曲輪(くるわ)」といいます。
本丸と同じ意味です。
とっても眺めがいい!北側がよく見えます。
大築城が攻めるのは、ここから北へ5kmの慈光寺!
その慈光寺方面がよく見え、当時の緊迫した状況を肌で感じ、胸がキュっとします。
ぜひ、思いを馳せてみてください。
空堀などの遺構を見に行きましょう!
すごい遺構が待ち受けてますよ!
矢印の箇所が「虎口」です。「こぐち」と読み、出入り口のことです。
当時もここを通って行き来していたんですね。
虎口を直角に曲がって本曲輪に向かう造りになってます。
矢印の箇所から攻撃できるので、正面突破すると石を投げられたり、矢を射られたりしますので簡単には本曲輪に攻め込めません。
こういう造りを気にしながら想像して歩くと、山城歩きが何十倍も楽しくなりますね。
向こうからの侵入者を阻むための堀が掘られています。
とても深く、さらに幅もあるので、やすやすと進めません。
堀底に下りてみましょう。
ここに下りたら最後。上がれません。モタモタしてるうちに攻撃されてしまいます。
なんて恐ろしい!
あまりの高さに、恐怖を感じます。
V字の「薬研堀」という掘り方で掘られています。規模がよくわかります。
このように大築城にはたくさんの仕掛けが施されています。
遠くから見ると普通の山ですが、山の中に入るとびっくりするくらい
数百年前の城の遺構が手つかずで残っているのです。
大築城の後は、この城の軍勢に攻められた慈光寺に向かいましょう。
板東三十三所観音霊場九番札所である慈光寺は、天武天皇2年(673年)に開創され修験道場となり、平安時代に繁栄します。
鎌倉時代になると、幕府から厚い保護を受け大寺院となりました。
しかし、戦国時代になるとその慈光寺も戦乱に巻き込まれていきます。
境内には塔頭が建っていたであろう平場が点在し、僧兵の駐屯地としても使われていたのかもしれません。
境内は厳かな雰囲気で、慈光寺が関東を代表する大寺院だったことを感じることができます。
山奥に読経の声が響きわたり、荘厳な空気に包まれていたことでしょう。
これだけの高低差があり、まるで要害のようです。
作者は名工といわれる物部重光で、重光は鎌倉建長寺の梵鐘の作者としても知られています。
国指定重要文化財になっていて、慈光寺の歴史の深さを感じます。
戦国時代には大築城を拠点とした小田原北条氏の軍勢やその他の勢力に攻められて焼かれるも、たくさんの寺宝を残し、今に伝えてくれます。
宝物館でそれらの寺宝の一部を拝観(有料)することができます。