ときがわ町の山城をナビゲート!
山城ガールむつみ
こんにちは!
歴史&山城ナビゲーターも「山城ガールむつみ」です。
今回は、ときがわ町の「小倉城」「大築城」という2つのお城をナビゲートします!
一緒に山城を攻めている気分になって楽しみましょう!
いざ!出陣!!!
※「大築城跡」のレポートはコチラをご覧ください。
歴史講師、歴史&山城ナビゲーター。
山城、歴史イベントや講座を多数開催。
数多くの御城印デザインも手がけ、地域活性の起爆剤として「山城」めぐりの楽しさを伝えている。
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山城ガールむつみさんによる「小倉城跡」の解説
ときがわ町の山城
荒川水系の都幾川とその支流の槻川が流れ、さらには鎌倉街道が近くを通り、古くから交通の要衝地でした。
町の名前にもなっている「都幾川(ときがわ)」は、都幾山の南麓を流れている川だったので「都幾川」と呼ばれるようになりました。
そもそもの語源は「斎(トキ)」とも言われ、潔斎などを意味し、「清める」という意味を持つのではないかと考えられています。
都幾山には関東の武士から篤い信仰を集めていた古刹都幾山慈光寺があり、関東において、この地がとても重要だったことがわかります。
石積みがカッコイイ!ときがわ町の「小倉城」
石積みがカッコイイ!
国指定史跡比企城館跡群のひとつ『小倉城跡』。
小倉城は菅谷館跡、杉山城跡、松山城跡とともに国指定史跡「比企城館跡群」のひとつです。
鎌倉街道上道と山根筋(八王子、鉢形を経て上州に抜ける道)の中間に位置し、さらに背後を流れる槻川は河川交通の要所であり、小倉城は水陸の交通を握るまさに要衝とても重要な城です。
戦国時代の城主としては、後北条氏の家臣遠山氏、もしくは同じく後北条氏の家臣上田氏と言われています。
詳細は不明ながらも関東の動乱の中で、小倉城は重要な役目を担ったのでしょう。
では、いよいよ小倉城に登城開始です!
小倉城の南東山麓、大福寺から登っていきます!
標高137m、麓からの比高は70mくらい。息切らせて登りましょう~。
真正面に主郭の土塁がそびえ立ち、かなりの威圧感を感じてゾクゾクします!
後世に木材の運び出しなどの用途で切られたようです。
虎口は「こぐち」と読み、出入り口のことです。
この奥へぐるりと回り込ませて、主郭に入る仕組みと思われます。
直線的に主郭へ行かせない工夫が見て取れますね。
(この道は一部崩落しているため、この奥へ進む場合は散策路に戻って上の曲輪からお進みください)
これは石積みを「見せる」ことによって、威圧感を与えたり、権力を「見せつける」意図があったのではないかと思われます。
当時は麓から登ってくると、石積みの城壁がバーンと目の前に現れ圧巻だったことでしょう!
板状に加工して、レンガのように積んでいます。
手をかざすと、当時の人々の息吹が感じられる気がして感動します。
ここには門が建てられていたかも!?
丸で囲んだ箇所には石が積んであります。
石積を土台にした城門…。イメージが沸いてワクワクしますね!
こういった空間を「曲輪(くるわ)」といい、城内の空間、スペースを意味します。
平らにならして建物を建てたり、用途に合わせて様々に利用されたと思われます。
さきほどの曲輪と主郭を隔てる堀切が出現!!
我々の行く手を阻みます!
「堀切」というのは敵の侵攻を防ぐために、通路を掘り切って遮断するものです。
主郭へ簡単に向かわせないように、この堀切を施したんですね。
ここに堀切があるので簡単には向こう側へ行けません。どうやって行くのでしょうか?
答えは堀切の底から見上げると、わかります。
指を指している箇所を下から見てみましょう。
丸で囲んでいるあたりに一部だけ石が積まれています。
これは橋脚台だったと思われ、この堀切は橋を架けて進むようになっていたのではないでしょうか。
矢印の切れ目が主郭の虎口なので、有事の際は橋を外し渡れないようにして敵を防ごうとしたと考えられます。
城山に登る麓からの道が、すべて主郭に集まるように設計されています。
発掘調査でここに建物が建てられていたこともわかっています。
どんな建物があったんでしょうか?
90m×40mほどの広い空間で、4棟の建物跡が発掘されています。
土器や硯、碁石といった生活用品も出土しています。
この主郭がどのように使用されていたのか、想像すると楽しいですね。
主郭の土塁の内側には、雛壇状に石が積まれていたのが調査でわかっています。
これはとても特徴的な技術で、在地の石工集団の存在が垣間見えるといいます。
この技術は、鉢形城など他のエリアへと伝わっていったと考えられています。
それでは、主郭南西側のエリアへ行ってみましょう。
主郭に続く道を分断する役目です。
当時はもっともっと深かったので、効果抜群ですね!
さらに矢印の平らなところ、ここには櫓が建っていたと考えられていて、ここから矢を射たり、石を投げたりと、侵入者に対して守りを固めていたと思われます。
想像しただけで怖いですね!
では櫓が建っていた矢印のところへ行ってみましょう。
ここからは、北麓に流れる槻川を見張ることもできます!
堀の奥、矢印方面にも堀が続き、竪堀となって堀が落ちていきます。
斜面を登ってくる敵が自由自在に動けないよう横移動を遮断する役目です。
城内にはこのように様々な仕掛けが巡らされています。
では、主郭に戻って他の仕掛けを見に行きましょう。
ここは北東の山麓から登ってくるルートの入口になります。
ここを出て進むと…。
矢印のように直角に曲がって入るように設計されていて、より防御を高めた虎口になっているのがわかります。
15世紀の関東では、鎌倉公方や関東管領などの勢力の対立により、たくさんの戦が行われました。
その勢力の境界線となった比企郡にはたくさんの城が築かれ、連携しながら他の勢力の侵攻に備えました。
その当時の名残りが山の中に残っていて、訪れる者を歴史ロマンの旅に誘ってくれます。
主郭からは15世紀末~16世紀後半の生活道具が出土していて、戦国時代に城として使われていたことが分かっています。
駐車場のある大福寺の前面には堀が見つかっていて、城主クラスの居館があったと考えられています。
麓と山頂が一体となって機能していたのでしょう。
遡ると、13世紀~14世紀の板碑も出ているので、小倉城の城山は城が築かれる前からこの地方の信仰の山だったのかもしれませんね。
「板碑」って、なぁに??
これらの板碑はまさにここ比企郡が産地なのです。
小倉城に積まれている石と同じ緑泥片岩で造られています。